おたんこメモリー

おたんこなすな人生だ

なるべく自然に勇気出して言ってみた

今日は同居人と掃除機の値段見に行って、ご飯食べて色々してきました。おたんこなすです。

 

多分ブログに書いてなかったと思うんですけど、今ルームシェアしてます。2LDKに、三人。一人はリビングに住み着いています。

 

いつも一人で(最近は友達が電話してくれていましたが)散歩しているんですけど、今日は二人並んで居ました。その中で、自然に「病気悪くなってきて、バイト辞めた」って言ってみた。今まで言うのが恐ろしくて、言ってませんでした。こういううつ状態のときってあまり気持ちに余裕が持てなくて。相手が「こうすればいいよ」とか、「なんでこうしなかったの?」とか、相手にとっての最善策(僕にとっては最善策ではない)を教えてくれる事が多いのですが、それに応えられる余裕も無くなってるから、余計しんどくなるんです。

 

でも、ルームメイトは「そっか。ならゆっくり今は休みな。」ってだけでした。

 

それだけの話です。

いつも彼は自分の信じる正義に真っ直ぐで、そんな姿は良いと思いつつも自分とは価値観が違いすぎてついていけない事もまちまちです。でも、そんな彼が助言ではなくただの肯定で返してくれたのはホッとしました。

 

友達じゃないなんて僕は言ってしまってましたが、少しわからなくなりました。僕は相手のことが少し苦手ですが、相手は僕をどんな風に思っているのだろう。対等じゃないって思ってたけど、もしかしたら対等だと思ってくれているのだろうか。

 

でも、勝手に信じて勝手に傷つくのはもう怖いし、傷だらけで前に進めるほど僕は強くないので、考えるのやめます。

 

おたんこレポートでした。

何をやってもスタートラインから進むのが遅く、全然前に進めない。やがてみんなが飽きて辞めてしまってもそれでも続け、それでなお飽きた奴らが到達した場所にすら行けない。

 

文章も稚拙、絵も園児並み、音楽や作品に対する感動すらも思わず失笑するレベル。

 

何も楽しくない、何も楽しめない、何も続かない、こんな場所に何故生まれたのか。

 

よく考えれば、周りが俺を否定しないのは当たり前だった。下等な奴が側にいること程安心感を覚える瞬間は無いし、事実そんな当たり前の事すらよく考えないと浮かばないような脳を持ち合わせている。

 

全部俺のこと、何をやっても並にも届かない。そりゃ面白くない。

 

いいね、じゃねえんだよ。何も良くない。

三秋縋の『君の話』ネタバレレビュー

今年の初め頃に読んだんだけど、割と感動してその時ちゃんとレビュー書いてたからここに晒し上げとこうかなと言う魂胆。以下レビュー

 

 

 

これは読み終えた10分後に書いた感想です。

俺がまず一番悲しいと思った点
俺は、夏凪灯花じゃなく、松梛灯花に幸せになって欲しかった。でも、結果として、新型ADは松梛灯花の人生を悲しいものに終わらせて、夏凪灯花の人生も悲劇とした。でも、今これを書いていて思った。灯花は、もしかしたら幸せだったのかもしれない。嵐の日、千尋から電話がかかって来て急いで自宅に戻ったあの日、自分の名前を必死に呼ぶ千尋を見て胸がいっぱいで泣いてしまったあの日。それからの短くも幸せな二人の日々。記憶を失い、義憶も薄れ、そんな中千尋の話を聞き、最後の最後まで寄り添っていた時も、幸せだったのかもしれない。灯花は、作中に現れた《ボーイミーツガール》を作るきっかけとなった老夫婦と違い、お互いの鍵をお互いの錠前に差し込み、開けたんだと思った。

きっと灯花は幸せだったんだ、悲しくなんて決してなかった。

じゃあ千尋はどうだろう。
千尋は10年経ってなお、灯花の影を忘れられずにいる。忘れないでいる。でも、義憶技師となり、灯花の生み出した《ボーイミーツガール》は勿論、灯花と千尋が生み出したとさえ言える《ヒロイン》を生み出している。俺は千尋のそんな生き様が正しい正しくない以上に愛おしいと思った。ああ、人の愛はこうなんだと思った。美しいと思った。芸術的だと思った。

感想を書きながら噛み砕いていくことで色々気づきがあったけど、松梛灯花はきっと幸せであったし、夏凪灯花もきっと幸せだったんだ。そして千尋はそれを、彼女を忘れないでいる。ばかだなあと笑う彼女を感じて、感じていたことを、触れていたことを、幸福に思うだろう。

よかった、この物語は綺麗に大団円じゃないけれど、幸せな物語だった。孤独な二人が、一人じゃなくなる物語だった。

あとは余韻に浸るとする。

追伸
この読後、脳内整理をして、咀嚼ができたら無心でホワイトベリーの『夏祭り』を聞いてほしい。

 

 

 

来月から煙草値上げ

連日更新するのは珍しいおたんこなすです。

 

タバコに火をつけてふと思い出したので吸いながらちょっと書こうかなと。

 

来月からまた増税で値上げしてしまう煙草なんですが、俺が今吸っているのはラッキーストライクかセブンスターでどちらも600円に値上げです。昔はハイライトとか吸ってたんですけど飽きちゃいましてね。

 

で、タバコを辞めない理由なんですけど一つは当たり前にニコチン中毒者だからです。それ以上も以下もないただの中毒。ニコチン中毒になった理由ですけど、四年くらい前に辛くなってブロンODを一日一回とかそんなレベルで行っていた時がありまして、情緒も相当不安定だったんですよ。そんな時に「薬をそんなに飲んで心や身体を悪くするならタバコの方がずっといい、タバコを吸え」と言ってくれた友達が居ました。それからはなるべく不安な時や、気合を入れる時はタバコを吸うのが癖になりました。特に不安が強いときは、タバコを吸って心を落ち着かせて、頭の中を整理します。その頃からずっとそう。

 

タバコを辞めると、そう言ってくれた友達の言葉も消えるような(実際そんなことはありえないんですけどね)、そういった感覚になって怖いんですよ。

 

俺はとにかく不安症で、友達との関係も常に疑問視し続けて、勝手に酷い疲れに襲われるのですが、そんな気持ちを支えてくれているのは多分ニコチン以上にあの時の友達の言葉とそこに込められた気持ちなんです。

 

だから、たぶん一生やめることはできないし、辞めたいとも思わない。

 

おたんこレポートでした。

角度によって物事の見え方はまるで違う

久々になんか書こうかなあとか思って、必死に話題を脳みそからこねくりだそうとしているおたんこなすです。

 

あっいまさっきタバコ吸ってたんですけど、スマホいじるのに集中しすぎて気がついたら手元からタバコが消えたんですよ。で、瞬間太ももに痛みが走ってその痛みのもとが布団の上にポトンって落ちました。マジで焦ってとりあえず灰皿にぶち込んで布団に火が移ってないか手元のペットボトルの蓋を開けつつ確認しましたがなんもなかったです。火元には気をつけましょう。

 

閑話休題

そういえば大昔友人が「そうやってアニメの影響受けられて羨ましいね」と言っていたのですが(状況は結構どうでもいい事なので割愛)、その時は何だかちょっと恥ずかしくなったんすよね。でも、よく考えてみりゃアニメに影響されるってそれほど素晴らしいことないですよね。誰かが思いを込めて作ったものを別の誰かが受け取って、変化する。今風に言えばエモいですよね。えもたにえん。

 

アニメに限らず絵画、音楽、文章全てに置いて創作から受け取ったものを感じたり取り込んだり、奇跡のような美しさがそこにありますよね。俺はそのような現象や心情をとても好むので作り手であること、受取手である事、双方を愛してます。

 

根がネガティブな自分ですけどそのネガティブさを表現している人も沢山いて、それを受け取った時、俺は孤独を忘れられるんです。「信じる者は救われる」訳ですが、己の信じるモノを信じる者が救われるようですね。

 

ただ、このように芸術に魅入られた俺ですけど芸術を生み出したいと思うことはまだまだ先になりそうです。創作は楽しいですが、創作を見て聞いて感じる事はそれよりもずっと楽しいので。

 

幸せとは美味しいご飯をもりもり食べて温かい布団でぐっすりと眠り、芸術に没頭する事ですね。

 

以上中身のない比較的前向きなおたんこレポートでした。

絶望に投与する薬は無い

人は誰しも多かれ少なかれ孤独を感じることがある。

 

状況も多種多様、人によって様々。もしかすれば10人中1人だけが感じる場合もあるかもしれない。

 

孤独の特性は文章化し難い、それでもあえて例えてみるなら『巨大な寂しさ』であると思う。これに対してもまた、人それぞれ色んな対処を試みているだろう。俺もそんな孤独に悩まされる一般ピーポーな訳だけど、ずっと解決策を探し生きてきた中で一つ考えついた壁があった。

 

それは自分自身では絶対に認めたくない、深層心理という言葉の通り心の奥底で切に思っている感情だった。それは。

 

 

孤独は絶対に消えることはない。孤独は死ぬその瞬間までずっと纏わりつく。

 

 

こう思った時、その孤独に対する対処法も同時に想像してしまった。それが”対処”と言えるかはわからないけど、そのことについてしっかり文字にして残しておこうと思う。

 

唐突だけど、人間は慣れるということがとても得意な生き物何じゃないかと思う。適応能力が高いと言い換えても良い。そんな人間だからこそ、孤独にさえも慣れることが出来るんじゃないか。或いは、慣れるしか無いんじゃないかと思うようになった。

そう思ってからの行動は早かった。まずはこの世に蔓延る純情や愛情、寄り添い合い、友情、兎にも角にも互いに支え合う概念そのものが孤独を味わった人間が生み出した空想でしかないと俺は悟った。

 

俺の父と母は結婚して、離婚した。母はまた新しいパートナーを見つけ、別れ、また見つけて。そしてまた結婚をした。

その間父親はパートナーを少なくとも俺の分かる場所では見つけていなかった。

 

一つずつ解いていく、まずは母から。

母親の気持ちに関して、俺はよくわかる。俺も一時期パートナーなんて深い付き合いじゃない、所謂セフレを作りまくっていたから。孤独を紛らわすために、相手と寄り添うために。でも、セフレは行為を終えたら途端に興味を示さなくなり、足早に解散してしまう。それはとても寂しかったしより孤独を増幅させた。だからまたセフレを探して…。これはすごく良くない行為だっと思う。ずっと辛くなるだけだったから。でも、パートナーを探し続けていた母の感情はこの時俺が抱いていた孤独と親しいものがあると俺は思っている。

 

次に父親。父は酒の席になればかなり口がゆるくなるからその時はかなりずかずかと聞いてやる。父親は「自分は人間の中でも特異な感情を持っている」と自負していて、寂しさや人恋しさをある程度感じはするが一定ラインを越えた時「まぁいい」と完全に割り切ることが出来ると言っていた。この考え方について、俺は未だに理解が及ばないが少なくとも俺の今の「孤独への慣れ」はこの思想に近づけている。

 

父の特異と感じる部分は、この割り切り思想が何も自分の感情に対してだけでは無いということだ。友人関係の亀裂、職場での部下のヘマ、或いは自分のミス。ほぼ全ての事柄において「まぁいい」と割り切ってしまう。ある種、シミュレーテッドリアリティの類ではないかと俺は考えている。第三者視点として己の人生すらも切り離してしまうんだ。この考え方は対孤独に対しては凄まじく強く、俺の理想に隣接している生き方だと思った。

 

でも、父はそんな自分の生き方を好んではいなかった。父はそんな己を「薄情」だと感じているらしい。だから、人を心底信用したことがある俺のことを羨ましく感じる部分もあると教えてくれた。

 

確かに、人を信じる事は素晴らしい。俺は人を信じる事が大好きだったしそう生き抜くことにある種かっこよさを感じていた。だから誇っていた。閑話休題

 

隣の芝生は青く見えるってやつかもしれない。

 

さて、この二人の生き方についてかんたんではあるが解いてみた。なら次は自分の感情を読み解いて行く。

 

過去の考え方は知らない、それについては書かない。自分にとって少なくとも今は必要が無いからだ。だから、今の考え方を書いてみる。

俺は、誰も信用しないことにした。善悪がどうこうではなく、それが自分の心を守るのに適した考え方だったからそうした。

孤独は呼吸だと思うことにした。呼吸しないと死んでしまうように、孤独を感じ生きなければ死んでしまう。

そして、これは生きてきて一番痛感したことだけど、『孤独』は文字に出来ない。文字にするにはあまりにも俺のスペックが足りない。でも、それは俺だけじゃないことにも気がついた。だから人は物を作るし、歌を歌うし、絵を書くんだと思った。人によって、孤独を表現出来るモノは全く違うことに気がついた。

そして、何より、音楽や絵や作品がある限りオレ一人が孤独な訳じゃない事に気がついた。みんなが孤独であった。

 

昔、国語の教科書に『スイミー』という話があった。絵本の『みにくいアヒルの子』でも良い。ようは、自分だけがそうだと思ってた。

 

馬鹿げた被害妄想だと感じるのは自由だが、自分が感じている孤独を他人も感じているだなんて誰がわかろうものか。その事実に気がつくのに俺は22年も掛かったんだ。

 

みんな『スイミー』なんだ、みんな『みにくいアヒルの子』なんだ。

孤立し、孤独し、生きてる。

 

つまりだな、各々この孤独という絶望に付き纏われて、しかし生きているんだ。こんな駄文読んでるお前も、書いてる俺も、戦っている。

 

空元気で乗り切る人も、孤独を忘れる程に強烈な毎日を過ごす人も、孤独を諦め受け入れそれをそれであると思う人も。少なくとも確実にここに1人いる。

 

こんなに苦しいのにみんな生まれてきてるんだ、絶対なにかこの世界にはその理由がある。これは絶対にそうだと思う。ファンタジーだと笑うのは結構だが、人間は今浮かんでいるお月さまにだって行ったことがある。何らおかしくない。

 

人類が、とか大層な話じゃなく。俺が生まれてきた意味が絶対にある、それをあらゆる角度から、絶対に見逃さないように今探している。

 

この駄文もその一環でした。

 

以上、備忘録でした。

心は混沌

 常に支離滅裂な文章を書き殴る自分の記事を読み返したとき、意味はわかるが芸術性の欠片もないなと消してしまいたくなる時が多々ある。

 

でも、心の中身が常に整理整頓された言葉で出来ているのなら人は文字を書かないと思う。すべてが自分の中で完結するからな、逆に言えば完結を目指し文字を書いている。

 

自分の文字は本当に乱雑で無茶苦茶だけどこれこそ俺の心そのものだと思っていて、心は混沌としている。

 

難しく言う必要はないけど、簡単な言葉だけで表現できないのが心だから仕方ない。イメージしてみてほしい、ワンルームに散らかりまくってる単語をキレイに並べるにはまずはジャンル分けから始めるのが手っ取り早いと思う。俺は、なるだけジャンル分けをするために文字を書いている。

 

結局、このブログに書く文字は整理整頓の道中で今後完成された文字が書き込まれることはない。完成されたそれは、文字にすることすらできない思想思考で俺の中に完成を果たすからだ。

 

こんなふうに、己の文字の乱雑さを今完結させた。簡潔に。(ここギャグです)

 

以上おたんこレポートでした。