おたんこメモリー

おたんこなすな人生だ

絶望に投与する薬は無い

人は誰しも多かれ少なかれ孤独を感じることがある。

 

状況も多種多様、人によって様々。もしかすれば10人中1人だけが感じる場合もあるかもしれない。

 

孤独の特性は文章化し難い、それでもあえて例えてみるなら『巨大な寂しさ』であると思う。これに対してもまた、人それぞれ色んな対処を試みているだろう。俺もそんな孤独に悩まされる一般ピーポーな訳だけど、ずっと解決策を探し生きてきた中で一つ考えついた壁があった。

 

それは自分自身では絶対に認めたくない、深層心理という言葉の通り心の奥底で切に思っている感情だった。それは。

 

 

孤独は絶対に消えることはない。孤独は死ぬその瞬間までずっと纏わりつく。

 

 

こう思った時、その孤独に対する対処法も同時に想像してしまった。それが”対処”と言えるかはわからないけど、そのことについてしっかり文字にして残しておこうと思う。

 

唐突だけど、人間は慣れるということがとても得意な生き物何じゃないかと思う。適応能力が高いと言い換えても良い。そんな人間だからこそ、孤独にさえも慣れることが出来るんじゃないか。或いは、慣れるしか無いんじゃないかと思うようになった。

そう思ってからの行動は早かった。まずはこの世に蔓延る純情や愛情、寄り添い合い、友情、兎にも角にも互いに支え合う概念そのものが孤独を味わった人間が生み出した空想でしかないと俺は悟った。

 

俺の父と母は結婚して、離婚した。母はまた新しいパートナーを見つけ、別れ、また見つけて。そしてまた結婚をした。

その間父親はパートナーを少なくとも俺の分かる場所では見つけていなかった。

 

一つずつ解いていく、まずは母から。

母親の気持ちに関して、俺はよくわかる。俺も一時期パートナーなんて深い付き合いじゃない、所謂セフレを作りまくっていたから。孤独を紛らわすために、相手と寄り添うために。でも、セフレは行為を終えたら途端に興味を示さなくなり、足早に解散してしまう。それはとても寂しかったしより孤独を増幅させた。だからまたセフレを探して…。これはすごく良くない行為だっと思う。ずっと辛くなるだけだったから。でも、パートナーを探し続けていた母の感情はこの時俺が抱いていた孤独と親しいものがあると俺は思っている。

 

次に父親。父は酒の席になればかなり口がゆるくなるからその時はかなりずかずかと聞いてやる。父親は「自分は人間の中でも特異な感情を持っている」と自負していて、寂しさや人恋しさをある程度感じはするが一定ラインを越えた時「まぁいい」と完全に割り切ることが出来ると言っていた。この考え方について、俺は未だに理解が及ばないが少なくとも俺の今の「孤独への慣れ」はこの思想に近づけている。

 

父の特異と感じる部分は、この割り切り思想が何も自分の感情に対してだけでは無いということだ。友人関係の亀裂、職場での部下のヘマ、或いは自分のミス。ほぼ全ての事柄において「まぁいい」と割り切ってしまう。ある種、シミュレーテッドリアリティの類ではないかと俺は考えている。第三者視点として己の人生すらも切り離してしまうんだ。この考え方は対孤独に対しては凄まじく強く、俺の理想に隣接している生き方だと思った。

 

でも、父はそんな自分の生き方を好んではいなかった。父はそんな己を「薄情」だと感じているらしい。だから、人を心底信用したことがある俺のことを羨ましく感じる部分もあると教えてくれた。

 

確かに、人を信じる事は素晴らしい。俺は人を信じる事が大好きだったしそう生き抜くことにある種かっこよさを感じていた。だから誇っていた。閑話休題

 

隣の芝生は青く見えるってやつかもしれない。

 

さて、この二人の生き方についてかんたんではあるが解いてみた。なら次は自分の感情を読み解いて行く。

 

過去の考え方は知らない、それについては書かない。自分にとって少なくとも今は必要が無いからだ。だから、今の考え方を書いてみる。

俺は、誰も信用しないことにした。善悪がどうこうではなく、それが自分の心を守るのに適した考え方だったからそうした。

孤独は呼吸だと思うことにした。呼吸しないと死んでしまうように、孤独を感じ生きなければ死んでしまう。

そして、これは生きてきて一番痛感したことだけど、『孤独』は文字に出来ない。文字にするにはあまりにも俺のスペックが足りない。でも、それは俺だけじゃないことにも気がついた。だから人は物を作るし、歌を歌うし、絵を書くんだと思った。人によって、孤独を表現出来るモノは全く違うことに気がついた。

そして、何より、音楽や絵や作品がある限りオレ一人が孤独な訳じゃない事に気がついた。みんなが孤独であった。

 

昔、国語の教科書に『スイミー』という話があった。絵本の『みにくいアヒルの子』でも良い。ようは、自分だけがそうだと思ってた。

 

馬鹿げた被害妄想だと感じるのは自由だが、自分が感じている孤独を他人も感じているだなんて誰がわかろうものか。その事実に気がつくのに俺は22年も掛かったんだ。

 

みんな『スイミー』なんだ、みんな『みにくいアヒルの子』なんだ。

孤立し、孤独し、生きてる。

 

つまりだな、各々この孤独という絶望に付き纏われて、しかし生きているんだ。こんな駄文読んでるお前も、書いてる俺も、戦っている。

 

空元気で乗り切る人も、孤独を忘れる程に強烈な毎日を過ごす人も、孤独を諦め受け入れそれをそれであると思う人も。少なくとも確実にここに1人いる。

 

こんなに苦しいのにみんな生まれてきてるんだ、絶対なにかこの世界にはその理由がある。これは絶対にそうだと思う。ファンタジーだと笑うのは結構だが、人間は今浮かんでいるお月さまにだって行ったことがある。何らおかしくない。

 

人類が、とか大層な話じゃなく。俺が生まれてきた意味が絶対にある、それをあらゆる角度から、絶対に見逃さないように今探している。

 

この駄文もその一環でした。

 

以上、備忘録でした。