おたんこメモリー

おたんこなすな人生だ

価値とは

ニートになってかれこれ二年が経とうとしている、おたんこなすです。

 

 

最近、離婚して長く経つ父と遊ぶ約束をしまして、実際に遊びに行きました。どこに行こうか相談した末、競馬場へ行くことへ。

小生、競馬場へは行ったことが無かったのでどんなところか、楽しみにして行きました。

思っていた程に陰気な場所ではなく、何なら子供連れも大勢居ました。場内には野台がお祭りの如く点々と立っておりました。子供が遊ぶ為の公園もあり、想像以上に場内は意気揚々としておりました。

僕はと云いますと、父とパドック(馬が走る前にウロウロしてる広場みたいな場所)で良さげな馬を選んで100円賭けてレースを見ていました。1つも当てられませんでしたが…ハハ、あれ難しい。

こうして楽しい休日を過ごした訳ですが、実の所僕は父と僕との距離感が分からなくなっており、楽しさを感じている裏では疎まれているかも知れないという恐怖から常に家に帰りたいと感じていました。

 

 

 

僕と父は、一時期ずっと二人暮らしをしていました。しかし、僕は学校に全く行かない等迷惑ばかり掛けていました。問題なのは、僕が学校に行かなかったことに理由が存在しなかったことでした。いじめられているわけでも、友達が居ないわけでもありませんでした。ある意味図太かったので、サボりがちな割には吹奏楽部の活動にも参加していました。ただ「面倒くさい」そんな事を理由にサボり、そして父のストレスを全くもって理解出来ていませんでした。

僕は最終的に、父の怒りに怯え、母の元へ逃げました。それを最後に、父との二人暮らしは終わりを告げました。これが、僕の人生で最も大きな失態だったと言えるでしょう。

 

 

それから僕は転校先の学校でも変わらずサボったり行ったりを繰り返しました。そして、最もやってはいけないことをしたのです。あまりにも醜い方法を取り、自ら学校へ行けない状況を作り出すことで学校へ行かないという行為を正当化しました。どんな方法か、それはここにすら書けたものでは無いほどに自らの醜い部分です。

 

それからはほぼひきこもりに近い生活でしたが、具体的には違いました。

まずは昼夜逆転です、早朝眠り、夕方に起きる生活。

Skypeで知り合った同じ学生ニート達と通話によるコミュニケーション、

同じ学生ニート仲間と深夜に落ち合い、適当に雑談、散歩等。

 

これはこれで楽しい一年間でした。

それから偏差値の低い私立高校へ入学、中学と同じように行ったりサボったりを繰り返し当然のように留年、中退。

 

現在に至ります。

面白い話ですよね、同じことを何度も何度も何度も何度も繰り返し、僕は中学生の頃から何も変わっていません。これは両親が悪いのではなく、根本的に僕がダメなのですね。

 

 

 

何を伝えたいのか、何を吐き出したいのか。

僕は人生に失敗した、それだけです。日本中に大量に居るダメ人間、社会不適合者、怠け者、甘え、そういう物の一部です。

 

 

そしてこの底辺に落ちた人間は口を揃えてこう言うのです。「死にたい」「社会が悪い」「親が悪い」

 

理由はわかりますか?

今まで逃げることしか学んで来なかったからです。逃げることしか学生時代に行わなかったからです。だから未だに前進する、「就職しよう」「勉強しよう」という発想が出てこない、その発想からすら逃げているのです。逃げている間は気持ちいいですからね~、責任から逃げることは人生を自ら溝に捨てることです。

 

 

 

長々と書きましたが、僕がこのブログのクッソ長いこの文章を読み上げてくれた方に伝えたいのはただ一つです。

 

面倒から逃げたその先に逃げ場所は無い、故に立ち向かう以外に人生を楽しむ方法は無い。

 

 

俺は反面教師です。俺の真似をして人生を溝に捨てたい方はどうぞご自由に。ただし、後悔することは折り紙付きです。両親からすらも見放される絶望感、孤独感、そしてもはや何も間に合わずにただ死を待つだけの焦燥感をとくと味わいください。

 

 

追記:どうでもいい話ですが、これから死ぬニート・ひきこもりの為に1つ良い事を教えてあげます。僕は死ぬ時は首吊りにしようと決めています。理由は2つあります。1つ、強い衝撃の伴う方法では無いため度胸が無い僕のような人間でも出来る。2つ、好きな音楽を聞きながら出来る。この2つめが大事です。最も好きな音楽を耳に終止符を打つなんて、なんだか素敵じゃないですか?僕はそう思います。それに、人生を終える瞬間に聞く音楽をどれにしようかなんて選んでるだけでワクワクするじゃないですか。僕は未だに、どの曲にしようか決められません。

よしよしよしよしよぉ~~~~~~し

今日からは

 

ダンディ! クール! アダルト!

 

そんな男を目指して行こうかと思います、めっちゃ唐突に。

いかにも中二病っぽいでしょ?中二病ですから。

なんだか何に大してもビクビクしてるのなんてみっともないし、俺もいい歳でガキじゃないんだから安定した人間になりたいと思って、それだけです。

 

別に何か変わるわけじゃないですが、心意気変えるだけで気持ち楽になりますから。とりあえずは、まともに職を付けるか死ぬかしないとな。ニートは非クールですから。

おさんぽ

たまには~と思い、面接を終えた後、適当にぶらぶらと歩いてみた。

 

 

今日は昨日よりもグッと気温が下がって来ていて、風が気持ちよかったなぁと。それに、上を見てみると強い風の影響か、面白い形の雲になってました。

f:id:kozupixi:20170901215749j:plain

 

たまにはこんな風にボーっと歩くのも良いかなぁと、部屋にこもってPCばっかいじってるよりよっぽど健康的な気がしました。

自己と他者

俺は俺自身が他人に対して興味の薄い人間だとは自分では思いません。もしかすると、他人から見れば関心を持たない人間に見えるかもしれませんし、逆にやたら執着してくるヤバイヤツに見えるのかもしれません。

わかりませんが、とにかく興味はありますし、友人や恩人であれば恩返し、ではありませんが同じように、若しくはそれ以上に力になってあげたいという感情も抱きます。

 

僕は自己の所謂「波長」が他人のそれと完全に一致するということは絶対にありえないことだと思っているので、力になるということの真意を理解できないのです。

 

例えば、何か大きな問題に悩んでいる相手を見て、その問題の捉え方、感じ方、理解のし方はそれぞれ違う訳じゃないですか。それで的外れな「答え」的なモノをこちらが考えて掲示したとしても、それが的外れな見解である以上悩みは解決されないし、助かりもしない訳ですよ。それは助けになっているかなんて問題ではなく、最早重荷でしか無いです。無駄に気を使わせて、僕は相手の問題を余計に重たくしてしまうのです。

 

こんなふうな考え方をしていると、最早何をしていいのか、何をするのが正解か、それが分からなくなって結果何もしない、何も助けない、何の役にも立たない。これが望んでいたことか?そんなわけがない。助けたい、でも分からない。

 

こんなのって、何なんですか。なんで人ってみんな同じじゃないんですか。むしろ僕が、みんなと全く同じ生き物ならどれだけ生きるのが楽だったか、幸せであると感じていたか。

 

僕は他人を完璧には理解できないし、他人もまた僕を完璧には理解が出来ない。結局誰しもが孤独感を拭えず、誰にも支えられずに生きるしか無い。あんまりじゃないですか?これが甘えであると言われるのであれば、甘えない方法を知りたいです。これは皮肉ではありません、文字通りの意味で知りたいのです。

ふとした瞬間に

無意識に溢れ出る後悔と焦りの感情。

おたんこなすです。

 

上記の通り、考えないように、気が付かないように、そう思っていても突如として自分の状況が焦らざるをえない、後悔を抱かざるをえない、行動しなければ間に合わなくなってしまう、そんな風に思い出してしまうものなんです。

これは生存要求からくる防衛本能なのだろうか、理由など掘り下げても何の意味も無いが。

 

 

本当の所、生きたくて生きたくてしょうがないのですが、生きるためには労働を伴うじゃないですか、労働の苦痛に、その程度の痛みすらも耐えられない人間は生存資格すら持ち得ないので無いでしょうか…。

 

ホームレス、それが俺にとってはもしかすると最も生きやすい方法なのかもしれない。なんて最近は思っています。勿論ホームレスの生活を舐めているわけではありませんが。

 

 

首を吊ろうとする時、何が怖いのかというと本当に死んでしまうという恐怖、扉吊りしか出来ない環境下なのでそれを行える場所がリビングと洗面所しか無いのですが、その時リビングであればペットの兎がずっとこちらを見ていること、洗面所であれば首を吊ろうとしている自分が嫌でも目の当たりになることです。

幽霊という生物、或いは現象についての考察

幽霊といえば、何のことだか分からない人の方が今や少ないと思う。

オカルトでは最もメジャーな存在であり、日本では妖怪と呼ばれている場合も多い。種類も豊富で、幽霊を題材にした映画、アニメ、漫画、小説、果てはアダルト作品など無数の作品が作られている。

 

 

さて、幽霊という存在について、僕が昔から考察していた1つの説がある。ググっても意外に当てはまらないのでもしかすると意外な発想、或いは最もありえない考えなのかもしれない。その説というのが

「幽霊は他人の脳に干渉、擬態、及び透明化が可能な生物である」

という仮説である。

 

僕がこの仮説に行き着いた理由の1つに父の話す、「幽霊の姿にはある程度テンプレがある」という話である。

単純な話だ

 

「性別は♀が多い」「手や足などの一部分のみが見えるor映る」「目の前にただ立っている」「髪は長髪でカラーは黒が多い」など。

 

これが一体どこからの発祥であるのかは僕は知らないが、少なくともこのパターンに属すタイプの体験談、ビデオ、写真などはかなりの数を締めているのでは無かろうか。

これはイメージが固定化されることにより、”幽霊”を目撃した人間がイメージする”幽霊像”を脳の干渉を媒介に視認させているのでは無いだろうか?と考えた。

 

また、相手を驚かせる行為は相手への威嚇とも取れる。これは廃墟や夜の墓など、比較的人が立ち寄らない場所を寝床及び縄張りにした”幽霊”が行っているものと考える。また、夜に目撃されるイメージが強いのは夜行性だからでは無いだろうか。

 

 

これはかなりゆるい考察であり、矛盾点がまだまだあるかもしれない。他には、他国の生物兵器及びその試作生物であるという考察も考えたがこんな太古から目撃されているのにそれはどうなのか、という疑問を感じた。

本当の幸せに気づいてしまった

恐らくそれは…完全なニートになることです。将来を考慮し、バイトやハロワ通いをやめて最早何も考えない毎日を送ることです。

 

 

時が経てばやがて恐怖することも無くなり、あれだけ恐ろしかった社会進出や両親が亡くなった後の未来を考えなくなります。

 

 

恐怖心や不安が無くなれば人は心の平安を手に入れます、平安は幸せなのでこれが本当の幸せです。永続性というものはそもそも幸せには存在しないモノ、どの人間にも言えることですが幸せはやがて終わるものなのでこの幸せに永続性が無いのも当然。

 

 

詰まるところ、幸せは考えないことなんですよ。何も考えないのが幸せです。なのでこれから僕は何も考えずにネトサと将棋してるだけの人間になります、ソレ意外はもう要らないです。