本当の生きる意味、生きていた日々。
おたんこなすは母と父が小学生の頃に離婚しました。それから何度も母と父の家を行き来していました。それは二人の事が好きだったし、二人が家にいて、妹と自分のいる小さな家という世界が愛で溢れていたからです。
でも、母にとっても父にとってもきっとそれは最期までそうじゃなかったのだと思います。妹は殆ずっと母親と過ごしていました。母の情緒は安定していなくて、うつが重かったせいで妹の前で自殺未遂をしていた事が印象深いです。今では頑張ってお仕事をして、実際にはわかりませんが新しいお父さんと毎日を過ごしていて偉いですね。
実父も長い間、私と居たり離れたり、ガールフレンドが居たのかはわからないですが長く付き合っている様子は無かったです。そんな父も今は二度目の結婚をして、これからの人生を過ごしていくんですね。私はそれがとても嬉しくて、本当に心の底から幸せになって欲しいと願っています。
私はもう大人になってしまいました。私が母や父にとって保護するべき存在ではなくなり、自身もまた新しいパートナーや友人との日々や幸せを自分で掴まなくちゃなりません。でも私が幸せを思い浮かべる時、いつもいつもいつもいつも思い出すんです。沢山色んな場所に遊びに連れて行ってくれました。ゲームも買ってもらいました。美味しいご飯を食べさせてもらいました。
もうとっくに手遅れなんです。私は、私の人生を生きたいともう微塵も思わないんです。私が亡くなったとしてもそれを乗り越えられる強さを家族のみんなは持っている、そう信じています。母も父もそして妹も支え合って乗り越えて行くのだと思います。
私はいま入院していますが、何をしているのでしょうね。人様からお金をむしり取って、何をしているのでしょう。あんなにも愛していた人達から、奪って。
これを最後の投稿とし、少し時間を置いて気持ちを確かめて、思いを決めて、死にたいと思います。
今までこのブログを見てくれていた人へ、ありがとう。
生きてるって辛いね
別に病理に侵されてるから全部がしんどい…とは思わないよ。おたんこなすです。
躁転後にスマホぶっ壊れて持ってた写真とか音楽とか消えて色々たくさん失ってる今年です。
なすとしては頑張って生きようって思う日々ですがなすに限らず人間なんて生きていれば辛い事が山ほどあるよね。『なにがあった?なんて聞かねぇぞ、みんなそれぞれ何かあるからな。』という事です。
躁転して今回すごく長いです。もしかしたら1ヶ月いくかもしれません。ただ日々少しずつ疲れが溜まってきてます。抑うつに戻るのも辛いですし、混合でヤケになってやっちゃ駄目な事沢山やるとか、そういうのも困ります。実際そういうことしてました。
最近は金パブを1ヶ月我慢出来ました。それは偉いと思います。まあ………その間にコンタとかメジコンやっていたので何も解決してないのですが…。
早く処方薬だけで安定して働きたいです。自立したい。全ては『生きてて良かった』の為に。
以上おたんこレポートでした。
養父さんと俺は家族
こんばんは
おたんこなすだよ
今日は朝から区役所に障害者手帳の更新に行って、その後ちょっと大きい大学病院に行きました。現状かかりつけの精神科が無いので問題が無ければそこが今後通う事になる病院となるみたいです。
今年は急に廊下でぶっ倒れたり、市販薬依存の回復の為に入院したりと養父さんにめちゃくちゃお金の面で支援してもらってます。いえ、以前から生活費や病院代を払ってもらっていたのでずーっと迷惑は掛けっぱなしなのですが、その件についてお互いに話し合う事なく過ごしてきました。
今日の夜、(金パブの力で)二人で話し合いました。以前お友達と遊ぶ為にお金を借りた事を感謝している事や平日仕事を休んでまで私の通院を手伝ってもらってる事、生活全てを助けてもらってる事への感謝とか色々話しました。
最近の私は腕がズタズタになるまでリストカットしているのですが養父さんはそれを見て「件の友人と遊んでからリストカットをしているのでそこに何か影響を受けたのでは」と決して私の友人を疑う訳じゃ無いが可能性としてある、という事を話してくれました。
私は、「これは自身で決めたことで、友人は関係ない」と言いましたが他から見ればそれが本当かどうかはわからない、結果的に遊んだ後に切り刻んでいるのが事実である以上本当は関係あるのではないかと疑ってしまう。友人が大切なら尚更、家族の目線から見た時に友人が疑われないように過ごすのは私が友人を守る為に必要な事だよ、と教えてもらいました。リストカットはODへの抑制であること、同時に自身がちゃんと病気なのだという事実を可視化する為に行っていると説明しました。
養父さんは対等に、それ以上に家族として理解してくれました。私が如何に恵まれた立場なのか、『家族』として見てもらえているのかが分かりました。勿論ここに至るまでお互いに不干渉であったし、養父さんは私を嫌っているとも言っていました。だから、私を家族だから助けるという言葉には疑念を抱いて居ましたが、それは違いました。人は考える生き物、考えは時に大きく変わります。養父さんは私を家族だと認めてくれて、そして手助けをしてくれたのです。だから私自身も養父さんを家族として、支え合ってくれる理解者として、信じる事にしました。
これが結果的にどうなるのかはわかりません。ただ、自分がこれから生きていこうと思う上で手助けしてくれる存在が居ることがどれほど心強いか、そう思います。
友人と共に生きること、これを第一にその支えとなる家族の存在を私はありがたく思います。
以上おたんこレポートでした。
生きる為の理由とかな
こんばんは、おたんこなすです。
ここ数日でまぁ色々とあった訳ですが、自分の人生を揺るがすレベルの現象が起きまして。ただそれが良いか悪いかについては永遠に答えが出ることはない、或いはそれは自分が寿命によって死ぬその瞬間に悟るものである為判断出来ません。
ただまぁ俺は生きるという選択をしました。理由を他人に委ねる事は卑怯では無いか、自身の意志が無いのではないかとも思います。思考の放棄とは生きるにしろ死ぬにしろ絶対にやってはいけない事で何故ならばそれは責任という重みを他人に背負わせる行為になりかねないからです。
『この人が生きるから生きよう』『この人が死ぬから死のう』確かにこういった考え方、人生の選び方は存在するのですがそれを肯定してしまうと選ばれた人の人生は自由ではなくなってしまうのです。「私が死んだらこの人は死んでしまう、だから生きなきゃいけない」なんてあまりにも残酷な事象と言えます。
だから俺は自身の意志、選択により生きる方向を向きました。ただそれがずっと続くものかどうかは全くわかりません。結果的に今回の事象は俺に今後を生きていく上で味わうであろう孤独感や劣等感を待つ行為になってしまっているかもしれません。人間という生き物は秒単位で変わる極めて繊細な感情と目的や目標に向かう或いは現状を維持する為に行う思考という複雑な生命です。そんな存在と、つまり他人と関わっていく上で自身への評価が今現在高いモノであったとしてもいつかそれは沈んで行きやがて俺という人間が居たであろう位置に欠片さえも残らないような関係性になってしまうという事も十分にあるわけです。
人と人との関係に不変性など存在しない、それが良い意味で変わるのか悪い意味で変わるのかそれすらもわかりません。ただ、そのわからないという環境・理由に対して俺自身常に一線を引いた感情で接してきていたというのは以前にもブログで書きましたね。
俺が今居る立ち位置、俺が今接している相手、全てに俺は自身の心を剥き出しにさらけ出して接しています。これが何を意味するのかについてですが、一線を引いた感情でいれば例え俺から他人が離れてしまっても勿論傷つきますが【いつかは訪れた事だ】と自身の心を支える事もできる訳です。でも、それをせずコミュニケーションを取るというのはいつか訪れるかもしれないそれを直に受け止めるという事になるんです。
怖いですよ本当に、俺自体まず自己肯定感も無ければ突出した特技や魅力も持ち合わせていない人間なので離れていってしまう可能性の方が十分に高いのではないか、そう考えてしまうのです。これは、俺を大切にしてくれている人に対して無礼だ、失礼だと思います。思いますが、しかし心はそう思わざるを得ないのです。
やはり、生きていくというのはとてつもなく厳しくそして俺のような愛を得るに至らない、それを得られる武器の無い人間には永遠に孤独感や抑うつと向き合い続けなければいけません。とても、厳しいです。
俺には俺を救う為の不変性を持つナニカが見当たりません。なのに、俺の事を救う事ができるのは俺だけなんです。その俺が何も見つけられない現状を前向きに捉え、進もうと。そう思って居る訳です。
がんばります。
以上おたんこレポートでした。
辞められない理由と辞めるべきでない理由
こんばんは。
おたんこなすです。
最近、僕の語彙力が悪くないという評価を友人から受け「本当か?」と思いつつも大変嬉しくえへへって気持ちになりました。
閑話休題。
ここからが本編なのですが、もはや生きてても苦しい気持ちになる事が大変多く困ってしまっています。多分多くの人が様々な理由で人生を苦しみつつも生きていると思うのですが、僕の場合は生活における環境と社会的立場と病気による気分の浮き沈みが取り上げて困る事となります。
で、そんなメンタルに対する僕の対処はやはりODが主軸となってきます。それも、今までは40-50tだったのが自暴自棄になっているのもあり160tとか飲んでしまっています。昔なら泡を吹いて痙攣していた量ですが慣れというのは怖いもので意識を失う事はなくなりました。ただ、これは処方薬と併用していないからかもしれません。
薬を飲み、ひたすらぼーっとした頭で僕に寄り添ってくれる友人。これは、もしかしたら…本当にもしかしたら、【幸せ】かもしれません。苦しい現状をほんの少しだけ、それもその時だけ紛れる感情と僕のようなクズに寄り添ってくれる心優しい友人との会話や触れ合い。
僕はいつか見捨てられるのではないかと怯え、今までは誰に対しても一線引いた感情で接してきました。僕を想ってくれるその感情はその時だけのものであり、決して不変ではない。そう思い人間関係を過ごしてきました。ならば、例え僕から離れたとしてもそれはいつか訪れる当然の出来事だと割り切ることができるからです。
でも、僕は彼女にも話しましたが心の奥底から一線を引かず、彼女のくれる僕への愛や慈しみを不変だと信じる事にしました。これはとても怖い事です。彼女が僕から離れた時、僕は言語というモノでは表現出来ない悲しみを受ける事になるでしょう。しかし、そのリスクを背負ってなお彼女がくれる全てを受け入れ、そして対等になりたいと思ったのです。
だから、僕が死ぬ時は彼女と居るし、彼女が死ぬ時は僕が居ます。
例え僕から遠く離れたとしても、彼女へ向けたこの剥き出しの感情を後悔する事は無いです。
以上おたんこレポートでした。
色々
友達や親友という言葉では埋める事のできない感情を抱く人物とほぼ一日以上を過ごしました。
それでもやはり金パブは飲んでしまっていますが、一人で居る時間の何倍もそれはもう素晴らしい、素敵な時間を過ごしています。希死念慮が薄れてしまうくらいそれは美しい時間なんです。
その人とはこの人生に終止符を打つ事についてよく話します。二人にとってそれはとても重要で、そして現実味のある、そういう話なのです。
その人は俺を選んでくれました。俺はその人を選びました。しかし、本当に自身にその価値があるのか、今この時になってなお疑問を抱きます。ひとえにそれは自信のなさから来る自身への信頼性の低さが要因となっている訳です。
勿論私は人間です。生き物です。だからいつか、その時が来れば死ぬ訳です。ただし、それはこれを書いている今では無いし選んだその人以外でも無いのです。
私に選ぶ権利があるのか、選ばれる価値があるのか、わかりません。ただ、きっとその時はいつか訪れて私とその人を重く硬く苦しい鎖から解いてくれるんです。
死とは、何でしょうか。それ程に死を選ぶことは罪なのでしょうか。人生とは誰のもので誰の責任で誰の為にあるのでしょうか。
誰かのために死なない。それはとても素晴らしい事です。立派です。ですが、自身の為に死ぬ事を誰が否定できますか。それを、素晴らしい選択であると認められない理由を誰がつけられるのでしょう。
私は、私の為に生きてきました。それはきっと、多くの人がそうであるはずです。ならば、私の人生を終わらせる事、それもまた、私の為の人生なのです。
以上、夜中まで遊び呆けているおたんこレポートでした。