こんばんは、おたんこなすです。
ここ数日でまぁ色々とあった訳ですが、自分の人生を揺るがすレベルの現象が起きまして。ただそれが良いか悪いかについては永遠に答えが出ることはない、或いはそれは自分が寿命によって死ぬその瞬間に悟るものである為判断出来ません。
ただまぁ俺は生きるという選択をしました。理由を他人に委ねる事は卑怯では無いか、自身の意志が無いのではないかとも思います。思考の放棄とは生きるにしろ死ぬにしろ絶対にやってはいけない事で何故ならばそれは責任という重みを他人に背負わせる行為になりかねないからです。
『この人が生きるから生きよう』『この人が死ぬから死のう』確かにこういった考え方、人生の選び方は存在するのですがそれを肯定してしまうと選ばれた人の人生は自由ではなくなってしまうのです。「私が死んだらこの人は死んでしまう、だから生きなきゃいけない」なんてあまりにも残酷な事象と言えます。
だから俺は自身の意志、選択により生きる方向を向きました。ただそれがずっと続くものかどうかは全くわかりません。結果的に今回の事象は俺に今後を生きていく上で味わうであろう孤独感や劣等感を待つ行為になってしまっているかもしれません。人間という生き物は秒単位で変わる極めて繊細な感情と目的や目標に向かう或いは現状を維持する為に行う思考という複雑な生命です。そんな存在と、つまり他人と関わっていく上で自身への評価が今現在高いモノであったとしてもいつかそれは沈んで行きやがて俺という人間が居たであろう位置に欠片さえも残らないような関係性になってしまうという事も十分にあるわけです。
人と人との関係に不変性など存在しない、それが良い意味で変わるのか悪い意味で変わるのかそれすらもわかりません。ただ、そのわからないという環境・理由に対して俺自身常に一線を引いた感情で接してきていたというのは以前にもブログで書きましたね。
俺が今居る立ち位置、俺が今接している相手、全てに俺は自身の心を剥き出しにさらけ出して接しています。これが何を意味するのかについてですが、一線を引いた感情でいれば例え俺から他人が離れてしまっても勿論傷つきますが【いつかは訪れた事だ】と自身の心を支える事もできる訳です。でも、それをせずコミュニケーションを取るというのはいつか訪れるかもしれないそれを直に受け止めるという事になるんです。
怖いですよ本当に、俺自体まず自己肯定感も無ければ突出した特技や魅力も持ち合わせていない人間なので離れていってしまう可能性の方が十分に高いのではないか、そう考えてしまうのです。これは、俺を大切にしてくれている人に対して無礼だ、失礼だと思います。思いますが、しかし心はそう思わざるを得ないのです。
やはり、生きていくというのはとてつもなく厳しくそして俺のような愛を得るに至らない、それを得られる武器の無い人間には永遠に孤独感や抑うつと向き合い続けなければいけません。とても、厳しいです。
俺には俺を救う為の不変性を持つナニカが見当たりません。なのに、俺の事を救う事ができるのは俺だけなんです。その俺が何も見つけられない現状を前向きに捉え、進もうと。そう思って居る訳です。
がんばります。
以上おたんこレポートでした。